2018年




ーーー3/6−−− 酒抜きの懇親会


 
成人してからこのかた、知人友人と懇親の席を設ける場合、酒無しでということはまず無かった。特に会社員時代は、「一杯やりながら」が普通だった。酒はコミュニケーションを図るための重要なツールだったのである。

 それが普通だったので、酒が入らないとなんとなく構えた感じになり、自分ながら硬い雰囲気がぬぐえなかった。酒が入ればスルスルと舌が回り、気がきいたジョークも飛び出すのだが、シラフではそういうモードに入れなかった。要するに、酒の力を借りなければ、自分の周りを覆っているバリヤーを取り除けなかったのである。

 数年前から教会に通うようになり、だいぶ変わった。教会では、信者が一堂に会して食事をする愛餐会が年に数回ある。また、普段の礼拝の後にも、うどん会と言って希望者がうどんを食べる会が行われる。もともとは、一人住まいの高齢の信者に昼食を提供し、寂しさを和らげるために始まったことだと聞いている。それが、現状は常連のたまり場的な雰囲気になっており、私も頻繁に参加している。それら食事の席は、全て酒無しである。

 キリスト教では、酒が禁止されているわけではない。イエス様も、弟子と一緒にワインを飲んでいた。聖書では、泥酔は戒められているが、飲酒そのものは禁じられていない。ちなみにイスラム教は、完全に飲酒禁止だそうである。日本のキリスト教会では、信者が集まって教会の中で酒を飲むところもあるようだし、牧師の懇親会で酒が出るケースもあるらしい。しかし、私が所属する教会では、酒類を目にした事は一度も無い。

 そのような、酒を伴わない親睦会を重ねてくると、酒に依存したコミュニケーションという性癖が、少しずつ改善されていくように感じる。酒を飲まなくても、楽しく会話ができるようになってきたのである。酒の勢いを借りずに話すので、話し方が丁寧になる。また、信者には女性が多いので、女性向けの話し方も身に付いてくる。いまさらこんな事を言うのも変だが、会話をすることに慣れてきた。その関連で、人との接し方も気さくになってきた。

 今まで思ってもいなかった事が契機となり、生き方のスタイルが変わるものである。





ーーー3/13−−− 例えられても嬉しくない


 
以前ある人のお宅で音楽イベントがあり、いくつかの演奏の中に、フルートの独奏があった。音楽大学の女学生で、ほとんどプロの腕前だった。

 終わった後の懇親の席で、「ランパルのように美しい音色ですね」と利いた風なことを言ったら、女学生は「そんな事を言われても嬉しくありません」と返した。おや、ずいぶん自信家だなと思ったが、続いた言葉で納得した。

 「私の音色は、私の独自な表現なのです。他の人に似ていると言われて、喜ぶわけにはいきません」さらに、「大竹さんだって、ご自分の作る椅子が、著名な作家の椅子に似ていると言われても、嬉しくないでしょう?」





ーーー3/20−−− 世話要らずの犬


 
娘が家内に犬をプレゼントした。と言っても、生きている犬ではない。樹脂で出来た、人形である。

 実にリアルな人形である。目つきや顔の表情、毛並みなどが、とても作り物とは思えない。まるで生きているようだ。子犬が何かによじ登ろうとしている姿をしている。それを家内はメダカの水盤に取り付けた。前足を掛けて縁から乗り出していて、後ろ足で壁をかこうとしている。あと少しで縁を乗り越え、水盤の中にボチャンといきそうだ。

 食卓の前の私の定位置から眺めると、犬は水盤の縁の上に上半身を出して、じっとこちらを見つめている。まばたき一つしない、当然だが。その眼差しを見ていると、妙に生々しくて、なんだかおかしな気持ちになる。

 7年前に飼っていた犬が死んだ。しばらくは悲しみにくれていた家内が、次第に新しい犬が欲しいと言い出した。なかなか出会いのチャンスが無くて、まだ目途は付いていない。私は、この犬で良いじゃないかと言った。ウンチの片付けをする必要が無いし、抜け毛で部屋を汚す心配もない。吠えて煩いことも無いし、餌代もかからない。そして、悲しい死を迎える事もない。

 家内は、そんなんじゃつまらないと言う。それももっともだ。世話が面倒だということ、そして少々の迷惑を被るということは、可愛いことの裏返しなのだ。何も手が掛からないというのは、居ないのと同じである。でもそれは、犬だけのことではない。

 私がおならをすると、家内は臭いと文句を言う。しかし、生きているから、臭いおならが出るのである。別に可愛いと感じてもらう必要は無いが、ブーという音とともに漂ってくる異臭に、生きている喜びを感じてもらいたいのである。




ーーー3/27−−− テレビを見ながら仕事


 以前、近所に個人経営の金属加工の作業場があった。コンピューター制御のボール盤を使って、小さな部品の穴あけ加工をしていたようである。たまにその作業場をのぞくと、夫婦で油まみれになって働いているのが見えた。

 用事があって、奥まで入って話をしたことがある。作業場の隅にテレビが置いてあり、つけっぱなしになっていた。作業の合間にテレビを見ていたようだが、つけっぱなしであったところからすると、作業をしながらテレビを見ていたのかも知れない。

 機械に材料をセットすれば、自動的に工程が進むから、テレビを見る余裕もあるのだろう。持て余した時間をつぶすには、新聞や雑誌よりも、テレビの方が好都合なのは分かる。もちろんテレビにかじりついて熱中するということはなく、気晴らし程度に見ていたのだろうが。

 私が機械刃物の研磨を頼んでいた機械屋さんも、作業場のテレビで大リーグの中継などを見ていた。そういうところはけっこう多かったのではないかと思う。

 そのような場面を見ると、いかにも仕事の現場らしいと感じたものだった。テレビを見ながら仕事をするのは不謹慎だなどとは思わない。仕事の中には単調で刺激が無く、それが苦痛に感じる時もあるだろう。それをどのようにしてまぎらし、仕事を継続させるかは、各人の工夫しだい。テレビが使われても良いと思う。

 企業だったら、そうは行かないだろう。テレビをつけっぱなしにして仕事をするなどという職場はありえない。例外は、私の知る限り、放送業界の一部くらいしか無いと思う。

 自営業だから許される事なのである。全ては自分の責任でやるのだから、咎められる事も無い。私がいかにも仕事の現場らしいと感じた理由は、管理されない労働の自由さに、ある種の好感をいだいたせいかも知れない。

 もっとも、私はテレビを見ながら仕事はしない。テレビを見ながら出来る仕事ではないからだ。








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